東大パパの子育て日記

東大卒パパが子どもに伝えたいメッセージ

「不登校」経験者の話から考える学校教育

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先日、ネットニュースを見ていたら、気になるニュースがありました。

不登校になった女性が、「不登校」と「学校教育」、そして「公教育に対する夢」について語られています。とても興味深く読ませて頂きました。

 

「母もきょうだい4人も私も不登校」 17歳少女が伝えたいこと

 

個性・個人の尊重、公教育の役割など、考えさせられました。

 

少し長いですが、引用します。

――なるほど。そんな成毛さんは「学校をつくること」が夢だそうですね。

 はい。正確に言えば「公教育の場を整備したい」というのが私の夢です。私立学校をつくりたいとか、フリースクールをつくりたいということではなく、公教育全体を変えたいというのが私の夢です。

 というのも出会ってきた先生たちのなかには「どう学校へ行かせるか」ばかりを考えていて「不登校した人の気持ちを見れていないのでは」と感じる人もいました。


 背景には先生の勤務状況が過重労働であるとか、公教育全体が閉ざされているなどの指摘も聞いています。

 でも、もっと学校という場はよくなるし、よりよいかたちを考えられるのではないかと思っています。

 

「先生たちのなかには「どう学校へ行かせるか」ばかりを考えていて、、、」

 

 

この考え方は、

 

「学校は、行くべきものである」

「学校に行くことは良いことだ」

 

という前提があるように思います。

 

私が子供の頃は、このような前提に、違和感や疑問を抱きませんでした。

しかし、この方をはじめて、(おそらく)少数の方々は、この前提に違和感や疑問を感じていたのだと思います。

 

 

さらに続きます。ちょっと長いですが、引用。

 

中学には教室へ入れない人用の教室が用意されています。その教室に通うことを「別室登校」と言いますが、私も別室登校をしていました。

 この別室の先生たちがすごくいい方々だったんです。小学校では「とにかく教室へ戻りさえすればいい」という対応でしたが、別室の先生たちは自分の意見を押し付けず、私の気持ちを一番に考えてくれました。

 具体的には、私に無理のない時間帯で時間割を組んでくれたり、学ぶ内容も複数の選択肢を用意してくれました。

 別室に通うまでは「教室に入れない自分は、なんてダメなんだ」と思っていました。いつも下を向いていたような気がします。でも気持ちが受けとめられることで「いまの自分でもいいんだ」と思えるようになりました。それからは前向きな気持ちになっていき、中学2年生からは教室へ戻っています。

 そんななかで沖縄への修学旅行がありました。沖縄ですから、私としては戦争のことを勉強したいと思っていましたが、修学旅行はとにかく「スケジュール優先」なんですね。

 修学旅行中、戦争当時の写真が展示された資料館に入ったとき、同級生たちは、お化け屋敷に入るような感じだったんです。なんていうか、ちょっとふざけた感じというか、少なくとも「学ぼう」という感じには私からは見えませんでした。でも、そういう同級生に対して先生たちが一番気にしているのはスケジュールです。生徒がなにを感じ、学んだのかよりも、いかに生徒が時間どおりに食事をすませ、目的地へ移動し、黙って話を聞き、アンケートを書いたか。


 沖縄には思わず立ちすくんでしまう資料や聞き入ってしまう話もありましたが、そういうことに心を動かされる時間さえ区切られてしまいました。

 もちろん何十人もの子どもがいるわけですから、しかたがないことですが、やっぱり疑問を感じざるをえませんでした。

 じつは別室から教室へ移ってきて、学校の授業や先生たちのスタンスに違和感を感じていたので、修学旅行を機に「学校を変えたい」とハッキリ思ったんです。そして変えるためには疑問や不満だけではなく改善点を考えようと思い、行き着いたのが「公教育全体の環境整備」でした。

――なるほど。成毛さんは環境整備に向けて、何から取り組みたいと思っていますか?

 やりたい方向性は見えているんですが、現実的な手がかりまでは見えていません。ただ、私の話を聞いて「ぜひ」と声をかけてくれた先生たちが、昨年10月に教職員向けの研修の時間を持たせてくれました。

 研修は学校に対してさまざまな思いを持つ中高生の話をベースにしたワークショップにしました。これを機に教員と生徒の対話の機会をもっとつくりたいと思い、現在は「教員と小中高生対話プロジェクト」と称して、いろんなイベントを重ねていきたいと思っています。

 

前半の記述は、「承認されたい」という気持ちからくる感想のように思います

 

未成年だけど(だからこそ?)、自分の考えや行動を、ちゃんと認めてほしい、という気持ちでしょうか。

 

学校の先生方の「スケジュールを重視する行動」というのは、現実的には受け入れざるをえない対応でしょうか。私は、教員の経験がないのでわかりません。毎日、学校で学生と対峙している先生方からすると、「言うことを聞かせる」というのも必要なことなのでしょう。

 

よく、フィンランドの教育がもてはやされますが、フィンランドの教育では、もう少し、自主性や自発性、個人の尊重のような概念を重視しているようです。(詳しくは調べていないですが)

まさに、この方がいっしゃっているような方向性ではないでしょうか。

 

となると、この方がおっしゃるような教育が、公教育でも実現できる可能性もあるのかもしれません。

 

 

唯一、私が引っかかったのは「学校を変えたい」という思いです。

 

大変素晴らしい考えだと思いますが、

「変えたい」という主張は、「少しばかりの傲慢さ」も感じざるを得ません。

 

結局は、人間、みな、自分の価値観を主張し、尊重されたい、と思っているわけです。

この方の主張と異なる考えをお持ちの方もいるはずです。しかも、現時点の日本には、そちらのほうが多数派のように思います。

 

公教育の目的、教育の目的とはなんぞや?

 

というところに立ち返り、他者の視点からも十分に考え抜いた上で、日本が行う「公教育」とはどうあるべきか、いろいろ考える必要があるように感じます。