東大卒の親は、「自分の子供にも東大に行ってほしい」と思うか?
またまた、ブログ更新が滞ってしまいました。
さて、今回は、前回の記事に対していただいたコメントに対して、自分の考えを述べてみたいと思います。
テーマは、「東大卒の親は、自分の子供にも東大に行ってほしいと思うか?」です。
結論から言いますと、
私の答えは、「勉強を頑張りたいと思うのならば、東大に行ってほしい」です。
いろいろと考えを巡らせて、しっかり書こうと思ったら、すごく長い文章になったので、数回に分けて紹介したいと思います。
今回は、前提となる考え方から。「そもそも大学とは?」ということに関して。
大学なんて、単なる「踏み台」でしかない。
「学歴社会」、「偏差値社会」という言葉があります。
最近は徐々に変わってきていると思いますが、いまだに存在する言葉だと思います。「学歴」や「大学偏差値ランキング」といった物差しを使って、人を判断したり、評価したりする考えですね。
さらに、「学歴は高い方が良い」、「偏差値が高い大学や高校に行った方が良い」と前提があるように思います。
この考えを是とすると、「良い大学に行くこと」が目標になりがちです。学歴社会や偏差値社会という考えからすると、「東大合格」なんて最高に「良いこと」と考えられがちです。
しかし、東大に行って、東大を卒業してみて、社会に出て仕事をすると、
「東大卒なんて、マジで大したことない肩書き」
「東大卒なんて、今の仕事に大して役に立っていない」
という想いが強いです。
それは、そもそも「大学」なんて人生の目標や目的ではなくて、「大学」なんかよりも大切なことがたくさんあるからです。
卒業後に自分の夢や目標に向かって様々な行動を行っていく上で、大事なの「今」何をするか、「今」何ができるか、です。
東大卒だろうと、慶應大卒だろうと、地方大学卒だろうと、高卒だろうと、中卒だろうと、すべてはしょせん「過去」の出来事です。
「あなたは、今、何ができますか?」という問いには、学歴なんてマジでどうでもよい要素です。
そう考えると、大学なんて、単なる手段にすぎません。
よく思うのですが、
「大学」とは、跳び箱でいう「踏み台」にしか過ぎない、
と思います。
みなさん、小学生のころ、跳び箱を跳んだことあると思います。
全力で跳び箱に向かって走って、踏み台を踏み、8段の跳び箱を跳ぶ。
踏み台を踏んだあと、視線はどこにありますか?
おそらく、跳び箱の最上段。
そして、考えることは、
「どこに手を突こうかな?」
「手をついたら、力強く腕で身体を持ち上げるぞ!」
「うまく着地するぞ!」
などでしょうか。
誰も、踏み台を踏んだ後に、踏み台なんて見ないですよね?
踏み台を踏んだ後、踏み台は揺れているかな? 壊れていないかな?
なんて考えないですよね。
跳んだあとに、踏み台なんて見ていたら、うまく跳び箱を跳べるわけがありません。
跳んだあとに見るのは、上であり、先であり、次です。
誰も、踏んだ後の、踏み台なんて見ません。どうでもよいからです。
大学も同じようなものだと思います。
みんな、将来は社会に出て、いろんな夢や、やりたいことがあると思います。
それに向かって羽ばたきたい、挑戦したい、と思っています。
言ってみれば、一段でも高い跳び箱を飛びたい!と思っているわけです。
小学生の早い時期から塾に通って、
偏差値の高い有名私立中学に行って、
もちろん中高一貫校で高校も有名高校。
さあ、目指す大学は東大だ!
努力の甲斐があって、東大に合格したーー!!
これは、
跳び箱に向かって、
全力で助走してきて、
ホップ、ステップ、ジャンプ!
と、まさに踏み台に踏んだ瞬間と同じです。
跳び箱を跳ぶとき、踏み台を踏んだあとは、踏み台なんてどうでもよいですよね?
踏み台なんて見ないですよね?
大学も同じようなものだと思っています。
大学に合格し、卒業したあとなんて、東大卒だろうが、何大卒だろうが、どうでもよいわけです。
これは、謙遜でもなんでもなく、心の底からそう思います。
ときどき、俺は慶應大卒だ、私は早稲田の政経出身よ、というプチ自慢をしてくる人がいます。(不思議と、東大卒を自慢する人はいない気がします)
これは、跳び箱で例えると、
踏み台を踏んだ後、跳び箱の最上段(=将来)を見ずに、踏み台(=過去)を見ている人だと思います。
そんな人は、たいして高い跳び箱を飛べていないはずです。
もしくは、跳び箱にぶち当たって、そもそも跳び箱自体を跳べていない人です。
要は、社会に出て、大したことを実現できていない人だと思います。
大学なんて、所詮は、「踏み台」にしか過ぎません。
「踏み台」を踏んだあと、
・どれだけ高く跳べるか?
・うまく跳べるか?
が大事だと思います。
極論すると、大学なんて行かなくても良い
「大学」を小学生の遊びの1つである跳び箱に例えましたが、小学生の遊びは、なにも跳び箱がすべてではありません。
ブランコもあれば、縄跳びもあれば、サッカーもあれば、野球もあります。
もっと言えば、遊ぶ必然性もありません。
家で本を読んでいたければ本を読めばよいわけです。
別に、踏み台を踏んで、一段でも高い跳び箱を跳ばなくたって良いわけです。
同じように、別に、少しでも偏差値の高い大学に行かなくたって良いわけです。
料理人になりたければ、料理の修行をすればいいし、
プロ野球選手になりたければ、甲子園を目指して、大学行かずにプロ野球の世界に飛び込めばいいし、
ミュージシャンになりたければ、演奏や曲作りに励めばいい。
大学に行かなくたっていいわけです。
自分が本当にやりたいことがあれば。
自分が本当にやりたいことに気づいていれば。
極論すると、大学なんて、すべてではない。別に行かなくても良いと思っています。
次回にむけて
そうは言っても、、、
現実的に考えると、
確率的に考えると、
大学は、「将来の可能性が一番広がる、割と便利な踏み台」であることは一つの真実だと思います。(だから、「とりあえず大学には行っておいた方がいい」と考える人がほとんどだと思います。)
私は、「東大は良い"踏み台"」と思っているので、
「跳び箱を飛びたいと思うならば、東大という踏み台を使うのは良いと思うよ」
と言いたいですね。
続きはまた次回に。