東大パパの子育て日記

東大卒パパが子どもに伝えたいメッセージ

東大卒の親は、「自分の子供にも東大に行ってほしい」と思うか?

f:id:shootingstar30:20180714161120j:plain

またまた、ブログ更新が滞ってしまいました。

さて、今回は、前回の記事に対していただいたコメントに対して、自分の考えを述べてみたいと思います。

テーマは、「東大卒の親は、自分の子供にも東大に行ってほしいと思うか?」です。

 

結論から言いますと、

私の答えは、「勉強を頑張りたいと思うのならば、東大に行ってほしい」です。

 

いろいろと考えを巡らせて、しっかり書こうと思ったら、すごく長い文章になったので、数回に分けて紹介したいと思います。

今回は、前提となる考え方から。「そもそも大学とは?」ということに関して。

 

 

大学なんて、単なる「踏み台」でしかない。

「学歴社会」、「偏差値社会」という言葉があります。

最近は徐々に変わってきていると思いますが、いまだに存在する言葉だと思います。「学歴」や「大学偏差値ランキング」といった物差しを使って、人を判断したり、評価したりする考えですね。

さらに、「学歴は高い方が良い」、「偏差値が高い大学や高校に行った方が良い」と前提があるように思います。

この考えを是とすると、「良い大学に行くこと」が目標になりがちです。学歴社会や偏差値社会という考えからすると、「東大合格」なんて最高に「良いこと」と考えられがちです。

しかし、東大に行って、東大を卒業してみて、社会に出て仕事をすると、

「東大卒なんて、マジで大したことない肩書き」

「東大卒なんて、今の仕事に大して役に立っていない」

という想いが強いです。

 

それは、そもそも「大学」なんて人生の目標や目的ではなくて、「大学」なんかよりも大切なことがたくさんあるからです。

卒業後に自分の夢や目標に向かって様々な行動を行っていく上で、大事なの「今」何をするか、「今」何ができるか、です。

東大卒だろうと、慶應大卒だろうと、地方大学卒だろうと、高卒だろうと、中卒だろうと、すべてはしょせん「過去」の出来事です。

「あなたは、今、何ができますか?」という問いには、学歴なんてマジでどうでもよい要素です。

そう考えると、大学なんて、単なる手段にすぎません。

 

よく思うのですが、

「大学」とは、跳び箱でいう「踏み台」にしか過ぎない、

と思います。

 

みなさん、小学生のころ、跳び箱を跳んだことあると思います。

全力で跳び箱に向かって走って、踏み台を踏み、8段の跳び箱を跳ぶ。

 

踏み台を踏んだあと、視線はどこにありますか?

 

おそらく、跳び箱の最上段。

 

そして、考えることは、

「どこに手を突こうかな?」

「手をついたら、力強く腕で身体を持ち上げるぞ!」

「うまく着地するぞ!」

などでしょうか。


誰も、踏み台を踏んだ後に、踏み台なんて見ないですよね?

 

踏み台を踏んだ後、踏み台は揺れているかな? 壊れていないかな?

なんて考えないですよね。

 

跳んだあとに、踏み台なんて見ていたら、うまく跳び箱を跳べるわけがありません。


跳んだあとに見るのは、上であり、先であり、次です。


誰も、踏んだ後の、踏み台なんて見ません。どうでもよいからです。

 

 

大学も同じようなものだと思います。

みんな、将来は社会に出て、いろんな夢や、やりたいことがあると思います。

それに向かって羽ばたきたい、挑戦したい、と思っています。

 

言ってみれば、一段でも高い跳び箱を飛びたい!と思っているわけです。

 


小学生の早い時期から塾に通って、

偏差値の高い有名私立中学に行って、

もちろん中高一貫校で高校も有名高校。

さあ、目指す大学は東大だ!

努力の甲斐があって、東大に合格したーー!!

 

これは、

跳び箱に向かって、

全力で助走してきて、

ホップ、ステップ、ジャンプ!

 

と、まさに踏み台に踏んだ瞬間と同じです。

 


跳び箱を跳ぶとき、踏み台を踏んだあとは、踏み台なんてどうでもよいですよね?

 

踏み台なんて見ないですよね?

 

大学も同じようなものだと思っています。

 

大学に合格し、卒業したあとなんて、東大卒だろうが、何大卒だろうが、どうでもよいわけです。


これは、謙遜でもなんでもなく、心の底からそう思います。

 

ときどき、俺は慶應大卒だ、私は早稲田の政経出身よ、というプチ自慢をしてくる人がいます。(不思議と、東大卒を自慢する人はいない気がします)

 

これは、跳び箱で例えると、

踏み台を踏んだ後、跳び箱の最上段(=将来)を見ずに、踏み台(=過去)を見ている人だと思います。

 

そんな人は、たいして高い跳び箱を飛べていないはずです。

もしくは、跳び箱にぶち当たって、そもそも跳び箱自体を跳べていない人です。

 

要は、社会に出て、大したことを実現できていない人だと思います。

 

大学なんて、所詮は、「踏み台」にしか過ぎません。

 

「踏み台」を踏んだあと、

・どれだけ高く跳べるか?

・うまく跳べるか?

が大事だと思います。

 


極論すると、大学なんて行かなくても良い

「大学」を小学生の遊びの1つである跳び箱に例えましたが、小学生の遊びは、なにも跳び箱がすべてではありません。

ブランコもあれば、縄跳びもあれば、サッカーもあれば、野球もあります。

もっと言えば、遊ぶ必然性もありません。

家で本を読んでいたければ本を読めばよいわけです。

別に、踏み台を踏んで、一段でも高い跳び箱を跳ばなくたって良いわけです。

 

同じように、別に、少しでも偏差値の高い大学に行かなくたって良いわけです。

料理人になりたければ、料理の修行をすればいいし、

プロ野球選手になりたければ、甲子園を目指して、大学行かずにプロ野球の世界に飛び込めばいいし、

ミュージシャンになりたければ、演奏や曲作りに励めばいい。


大学に行かなくたっていいわけです。

 

自分が本当にやりたいことがあれば。

自分が本当にやりたいことに気づいていれば。

 

 

極論すると、大学なんて、すべてではない。別に行かなくても良いと思っています。

 

 

次回にむけて

そうは言っても、、、

 

現実的に考えると、

確率的に考えると、

 

大学は、「将来の可能性が一番広がる、割と便利な踏み台」であることは一つの真実だと思います。(だから、「とりあえず大学には行っておいた方がいい」と考える人がほとんどだと思います。)

私は、「東大は良い"踏み台"」と思っているので、

「跳び箱を飛びたいと思うならば、東大という踏み台を使うのは良いと思うよ」

と言いたいですね。

 

続きはまた次回に。